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INTERVIEW

2023.01.27

【連載】第11回:俊龍/PICKUP CREATORS

【連載】第11回:俊龍/PICKUP CREATORS

アニメ音楽のシーンで注目のクリエイターを毎回1組ピックアップし、その作家性や音楽遍歴を紐解くリスアニ!のインタビュー連載「PICKUP CREATORS」。

今回は、アニメ・アイドルソングの分野を中心に幅広く活動し、一度聴いたら耳から離れないキャッチーなメロディセンスで絶大な支持を集める作曲家・俊龍をフィーチャー。そのクリエイターとしての矜持に迫る!

INTERVIEW & TEXT BY 北野 創(リスアニ!)

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【連載】PICKUP CREATORS

ピアノ、恩師、茅原実里との出会い――作曲家・俊龍が誕生するまで

――プロフィールを拝見したところ「2007年作曲家デビュー」とあるので、作曲家活動15年を迎えたことになりますね。

俊龍 2007年ということは、みのりん(茅原実里)の曲かな? もう15年になるんですね。毎年忙しさのマックスが更新されるので、あまり年数を意識したことがなくて(苦笑)。

――この15年は振り返るヒマもなく、全力で走ってこられたわけですね。

俊龍 そうですね。いつもお世話になっている周りのプロデューサーさんからも、よく冗談半分で「この短期間の締め切りでいけたのなら、まだ新記録を作れますよね!」みたいに言われるんですけど、「いや、無理だから!」っていう(笑)。もちろん限りある時間の中でも全力で作ります。時間に余裕があればさらに良い曲が作れるとは限らないですし。

――今回はそんな俊龍さんが作曲家を志したきっかけのところからお話を聞かせてください。そもそも音楽に触れ始めたのはいつ頃だったのしょうか。

俊龍 3歳か4歳の頃にクラシックピアノを習い始めたのが最初でした。ただ、小学6年生までは真面目にやっていたのですが、中学に入ってからの3年間は反発で野球一筋になってしまって、ピアノからは距離を置いていたんです。チームはそれほど強いわけではなかったのですが、仲間と一生懸命やるのが楽しくて。でも高校1年生のときに野球を辞めて帰宅部になってからは、またピアノを触るようになって、大学ではピアノサークルに入って遊び半分で難しい曲を弾くことに挑戦していました。まあ本当に趣味レベルでしたが。

――クラシックがお好きだったのですか?

俊龍 そこまで詳しいわけではないのですが、聴くのは好きです。基本的にどんなジャンルでも聴くので、J-POPはもちろんレゲエであれ民謡であれ苦手なものはないのですが、やはりメロディアスな楽曲や感動的なものにはより惹かれますね。学生時代は尾崎 豊さんをよく聴いていた時期があって。何かの帰り道に男友達の1人がイヤホンで音楽を聴いていたので、「何聴いてんの?」って聞いたら、そいつがイヤホンを耳に突っ込んで聴かせてくれたのが尾崎 豊さんだったんです。そのときに「うわっ!なんだこの人、かっけー!」と思って。

――素敵な出会いじゃないですか(笑)。

俊龍 そういうのをかっこよく感じる年頃だったんでしょうね(苦笑)。そこからCDをたくさん買って、特にライブCDは全部覚えて家で歌うくらい聴いていました。もう忘れてしまいましたけど。

――話を少し戻して、大学時代にはピアノサークルに所属していたとのことですが、その頃から作曲家を目指すようになったわけですか?

俊龍 それが普通に就職をしたんです。当初は出版社志望だったのですがなかなか採用までには至らず、そこから自分は音楽をやっていたので「よし!今度はレコード会社だ!」と思って有名なレコード会社ばかりを受けたのですが、これも受からず(苦笑)。それで最終的にUSENに就職して営業マンをやっていたのですが、レコード会社のプロデューサーや音楽制作に関わる仕事への憧れを捨てきれず、丸2年で退職して、エイベックス・アーティストアカデミーのクリエイターコースに通い始めました。ミュージックビジネスを学ぶコースも魅力的だったので、どちらにするかギリギリまで悩んだのですが。

――そこでクリエイターコースを選んだ決め手は?

俊龍 ピアノをやっていたのもありますし、その当時、テレビの音楽番組を観ながら「ここはこういうメロディにしたほうが気持ちいいな」とか「多分自分のほうがいい曲を作れるな」と想像していたんです。その頃は自分も何故か尖っていて、謎の自信があったんですよ(苦笑)。実際はそんなことは全くなかったですし、それまで作曲の経験はゼロだった自分が、なぜあんなにも自信があったのか、今となってはゾッとします(笑)。

――では、そのアカデミーに入ってから自分で曲を作り始めたわけですね。

俊龍 はい。そこに通ったのは2年間だったのですが、2年目のときに師匠の上田起士さんから本格的に学ぶようになりました。上田先生は作曲だけでなく作詞もされる方なので、作詞と作曲を同時に教わっているような独特の授業をされるんです。その内容が面白いだけではなく、色々な課題も課してくださるので、とても充実していました。ちなみに、そのアカデミーの1年目のときに同じクラスだったのが、今一緒に仕事をしているSizuk Entertainmentの湯浅順司くんです。

――元キングレコードで、現在もAKB48のA&Rを担当されている方ですね。同アカデミー出身の茅原実里さんとの出会いもこの頃ですか?

俊龍 そうですね。自分がクリエイターコースの2年目のときに、みのりんがアルバム(2004年リリースの1stアルバム『HEROINE』)を制作するということでコンペを行われて、当時のマネージャーさんがスクール生にも声をかけてくださったんです。そのときに1曲採用していただいたのが、厳密に言うと自分の一番最初の作品になります。

――植木瑞基名義で作曲した「Emotional」ですね。

俊龍 それがきっかけで、マネージャーさんからライブ用のBGMを作るお仕事をいただいたり、逆に自分が作ったデモ曲の仮歌をみのりんに歌っていただいたりして。そうこうしているうちに、彼女が『涼宮ハルヒの憂鬱』に出演して、ランティスで歌手活動をやっていくことになるのですが、自分はその頃、アカデミーでの生活を終えてエイベックスの「プロスタジオ」というスタジオでバイトをしていました。

――そして2007年、茅原さんへの楽曲提供で俊龍としての作曲家デビューを果たされます。

俊龍 当時のみのりんのランティス担当プロデューサーだった斎藤 滋さん(現ハートカンパニー代表取締役)が、新しいクリエイターや作曲家を探していたらしく、みのりんのマネージャーさんが自分を紹介してくださったんです。そうしたら斎藤さんから「こういう楽曲を募集しているんだけどトライする?」という感じでコンペの1000本ノックが飛んできて(笑)。いやあ、今思い返しても大変でしたけど、自分はしごかれると伸びるタイプなので、おかげで場数も踏めましたし鍛えられました。今、斎藤さんにその話をしても、「僕、そんなことやったっけ?」って言われますけど(笑)。

――そのなかで最初に採用されたのが、茅原さんのランティスからの初のアルバム『Contact』(2007年)に収録の2曲、「too late? not late…」と「mezzo forte」だったわけですね。

俊龍 「too late? not late…」は転機になった楽曲で、斎藤さんから最初にコンペのお話をいただいたときに、ここで「オッ!」と思ってもらえないとダメだなと思って、当時は週5でバイトをしていたのですが、その合い間に作った曲なんです。こういう話をすると「こいつ、アーティストっぽいこと言ってるよ」と思われるかもしれないですが(苦笑)、夢中すぎて、どうやってデモ曲が完成したのか覚えていないんですよね。

――それだけ集中して制作されていたと。

俊龍 そのときは頭の中はそれしかなかったので。電車に乗っていても、ご飯を食べていても。オーダーをクリアしつつ自分が良いと思うものを作るのは、当時の自分にとってはすごく難しいことで、もう手が冷たくなるような感じというか、ずっと冷や汗をかきながら作っていました。その意味でも、自分にとってはあの曲が始まりというか、誕生に近いものがありました。

次ページ:メロディとしての強さ、歌い手が感情移入できる楽曲

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